賀正

足りない足りないと夜眠らずに街をひたすら練り歩くことに一切の意味がないことを1年かけて学びました2018年。なあ、2019年は俺たち確実に遊ぼうよ。待ち合わせしよう。俺たちはライブをするからそれがライブハウスでも良いし、スーツケース一つで僕の部屋に転がり込んで来てもいいんだぜ?大丈夫!大丈夫!

他にも学んだことはある。むしろ感謝できる出会いが教えてくれたことだ。無理に寄り添ったって誰も得しねえ。俺は考え方がコロコロ変わるんだけど、何とか付いてきてくれる人たちがいるから成り立つんだよな。不思議なことに。例えそれが忙しい合間を縫った首の皮一枚の繋がりだったとしても俺の余暇を使って繋ぎ止めなきゃいけないんだよ。大事なのは無理して同じ方向を向くことじゃないな。一緒に過ごす時間、同じものを観ること。共有ってやつ。恋人同士じゃねえけどな。遠距離恋愛なんか糞食らえなんだよ。自分の時間なんかいらねえよ。むしろ全部俺の時間だよ。

寄り添うってのは悪い言い方をするとやりたくねえことを何か他に目的があってやることを俺の中では指すんだよな。俺が一番苦手なことで去年やろうとしてたことだ。この"寄り添う"と自分のやりたいことがゴチャゴチャになった。他でも上手くいかないことが多くて、アップデートにも忙しかったことが相まって一向に真っ直ぐに日の当たる道を歩めなかったんだな。今日もいい天気ですねーなんて余裕がどこにもなかったんだよ。常に真っ暗闇を皆んなで手を繋いで右往左往してた感じだ。大丈夫かしら?お前の言う方向合ってるか?なんつって。でも手は繋げてる訳で。

そもそも俺たちは自由だったし、寄り添う必要のある相手なんかいなかったんだ。目の前に色んなことを並べ過ぎたんだな。そして、それを眺め過ぎた。視界に入った目の前のことを一つに絞って全力でこなして初めて次にいける。それをやろうと思う。私生活でだってそうだよ。汚れた皿が視界に入ったら洗うんだ。バナナが視界に入ったら食うし、埃が視界に入ったら夜中でも掃除機をかけるんだよ。何から手を付けようと脳みそが考える前に終わらせる。俺たちには何となく時間がない。

 

仕事柄、年末年始は多忙だった。仕事を納めたと思ったら年は明けていた。大掃除なんかする暇はない。紅白なんか観てない。でも蕎麦は食べた。明けましておめでとう!の"おめでとう"ってなんなんだろうね?って話してた。去年を無事に過ごして年を越せたことを祝うらしい。知らなかった。今まで、時間が過ぎるのを待っとけば勝手に年は明けるのに何がおめでとうだよって思ってたんだ。一年を無事に過ごしたこと、大袈裟に言うなら生きたことは尊いことらしい。確かにな。そう思うことが歳を経るごとに増えてきた気がする。明けましておめでとう。今年も生きるぞ。