気のせいだよ

窓開けて寝転がるといい感じ。湯冷めするのが案外好き。先日は仕事終わりにランニングに誘われたのでなんだか気分だなと思って走ってきた。そして分かったことは気持ちの良い疲れ方をすると自分の睡眠欲を素直に認めてあげられる。時間が惜しくて眠れない癖に結果的に死ぬほど寝てしまう俺にとって、これは凄く重要なことかもしれない。今日1日の疲れを素直に認めて床に就く。これが丁寧に暮らすってやつなんじゃないか?丁寧に暮らすっていうのはそもそも何のことを言っているんだ?部屋は片付いていた方が良いとか、洗濯物は畳みましょうとかお風呂は毎日浸かりましょうとか、そういうことを言っているのか?みんな馬鹿か?どうしたんだよ、急に樹木希林みたいな面持ちでさ。

話は随分変わるんだけど芸能人はある程度売れたらツイッターを辞めて欲しいね。なんとか卓球がうるさくてたまらないよ。クレーム対応が趣味ならうちの職場に来てくれよな。尖りを売りにした芸能人が好きそうな馬鹿といっぱい喋れるぞ。皆んな結局見られてないとなんにもやらないんでしょ。やれてねえからやることが沢山あるように感じるんだよ。やりたいことだけやって過ごしていこう。ストレス社会なんて幻覚だよ。チョコレート食ってさ。ほらまた歯医者に行く用事が増えるぞ。

 

夕方トボトボ歩いて帰る。この時間は犬の散歩をしている人が多くてそれだけで癒されてしまう。暖かくなり小蝿が顔の周りを飛び回るようになった。引っかかるという言葉を選んでしまうくらいに罠のようにいくつも小蝿ゾーンが存在する帰路。目を凝らして歩く。今夜はスタジオに入るからそれだけで頑張れる。帰ったらすぐに飯をつくって食べる。雨上がりのこの空気感で小学校の頃の調子の悪いプール開きの日を思い出す。意地でも決行したいことがあの頃のようにある。風邪を引こうが塩素で髪がカチカチになろうが俺たちはプールに入りたかった。沈めたボールを誰よりも多く見つけて闘争心を養ってこい。ボケーっとしてたら夏がくるぞ。それまでに自分を追い込んだ自分から解放されてオレンジレンジでも一緒に聴きながらドライブしようぜー。

嫌われるスクリプト

生活。

何がどうなって生き長らえてるのかが分からない。何で蛇口から水が出てるのかから考えていかなきゃ。iPhoneで中途半端な電波を受信する。目の前で汚ねえジジイが缶ビールでうがいしてる。それを飲み込まずにだらしねえプリン体はなんのためにあるんだ?やっとの思いで読み込んだツイッターのネタ画像があまりにもしょうもなくてイライラする。割れ物注意で持ち運べない気持ちがタイムラインに大切に保管されてる。今日も回ってくるライブハウスのマナー。当たり前のことができなくて、できるやつが黙っていられなくなる。双方ダサく見えちゃうんだよ。ダサい奴はガン。時代を捉えたイケてる音楽が最新医療。いつの日か皆んなの頭の病気を治せるようになりたい。

 

見返すにも必要なギガ数。何もかもが惜しい。こんな生活にも価値が欲しい。なのでスタジオに今日も入る。安心していないからこそ安定するものがあるかもしれない。今を皮肉り今を生きれず。嫌われる前に嫌いになる代わりといっちゃなんだけど、愛される前に愛することを心がけたい。ツイッターにわるいねボタンがあったら押してるツイートばかり。現場にいる連中は抱きしめたい奴ばかり。アイラビュー。もう少しでライブができる。伝えたいことなどなく、信じている言葉もない。守りたい約束もないし、なんかホント生きてるだけ。それだけで幸せってナムアメンが言ってた。

夜桜

バンドとして作品という作品が何もないままでいると、時間感覚を失ったままはしゃぎ回るのみ。側から見ればお世辞にも活動的とは言えない状態が続いていくというのはこれまでずっと経験し、懸念してきた問題でございまして。

「3月は制作期間といこう!」そう決めてライブ活動を行わず1ヶ月が経ちました。我々のような無名バンドは1ヶ月はおろか、1日経過するだけでも名前を忘れられてしまうというのに。リスクを冒した意味はあったんでしょうか?我々はバンドの内なる場所で立ち止まることが多すぎてなかなか前に進まないままでいたんですが、近頃やっと次の一歩を踏みしめる音が聞こえてきたような気がするのです。不確かなのがバンドです。でもそれを売りにしないのがロックです。いつ解散するかわかりません!なんて言うなら今解散すれば良い。エアロスミスもいつの間にか解散してたし。目を瞑ってる間だったよ。人と人を繫ぎ止める作業も込みでバンド活動なんだって最近思う。もしかしたら今が一番良い次期なのかもしれない。今を逃したら俺はそれはそれは中途半端なおっさんになるでしょう。作曲やレコーディングがパソコンで完結する時代に閉じ込められて、若者の音楽を馬鹿にしながら地下鉄で発狂。その模様をツイッターにアップされ、皮肉にもそこでバズるんだ。

 

 

今年は桜を観た。夜桜。中学生の時にポテトチップスとコーラを持って友達と集まって眺めてたのを思い出した。夕飯の時間に子供が外に出るのを親は嫌がるわけだけど、子供に良い感性が宿ったのでは?となると話は別だった。「夜桜を観に行く」と一言親に言うと、どこか勝気な気分でチャリの鍵を持って家を飛び出したのだった。俺には四季を楽しむ感性があるのだ!風情だろうが!まいったか!といった具合に。

その日、俺は友人に花見に誘われていた。無論、俺は乗り気だった。仕事の休憩中に充電を使い果たした死にかけのiPhoneを片手に友人たちを探すのだが、想像の数十倍広い会場を1周もできないままそれは力尽きた。どうすることもできず、多彩にライトアップされた夜桜の中を一人でひたすら歩いた。久しぶりにああいうものを素直に綺麗だと感じた。次の約束が迫る中でもゆっくり、しっかり観ておこうと思った。覚悟を表明する訳でも、行く末を悟った訳でもない。ただ、なんとなく暫く見ることができない景色だと思った。

うわー、もう4時じゃん

作業に没頭する時間が多く、生活リズムがデタラメになっている。そういうわけで、今日は眠れぬ身体を無理矢理ベッドに押し付けてみる。ところがもう3時半だ。いよいよ退屈になってスマホを取り出す。

ネットは使い方さえ間違えなければ本当に面白いもので、知らない人と怖いくらい簡単に繋がることができる。知らない人と創作の話をした。芸術の価値や自分の立ち位置を再確認もできた。きっと意識していない部分でも何かの糧となっているはずだ。自分の至らないところ。リスペクトの精神。もう知らない誰かに嫌われてしまっても屁でもない年齢になった。例え、俺が何かヘマをやらかしてネットの世界で痛烈な批判を食らったとしてもそいつとご飯でも食べに行けば簡単に言いくるめることができそうだ。仲良くできるし、するかしないかは俺次第だとすら思う。現実にはそんなに悪い奴らはいない。突然、罵声を浴びせられることも少ない。架空の世界で傷ついたり、腹を立てたりする時間は本当に無駄だ。

距離の近い人とラインでやりとりをしていてもそんなことがあるだろう。でもその瞬間、俺にはその人のことが人として見えていなかったりするのかもしれない。羅列する文字に、鳴り響くスマホに、悪気のないスタンプに腹を立ててる可能性だってあるわけだ。

重要なのはその人を人として見ること。どんな人なのか知ること。敬語を知らない奴がタメ語で話しかけてきたっていちいち怒んなよ。そいつはそういう奴なんだから。それで綺麗に片付けることが今はなんだかできちゃうよ。俺は良いけど他でそういう態度取るなよ?なんてダサいお決まりの台詞なんて吐かねえよ。俺が良いなら良いんだよ。常識を知らない人間が嫌いな人は嫌いで良いですし、尖ってる感じが気に入ればそれはそれでロックってことで良いんじゃない?ライブハウスに遊びに来た君だってさ、話しかけられなくても音楽があるから良いじゃん。帰って虚しくなってもアップルミュージックがあるじゃない(俺らの曲はないけど)。相手が思い通りに動かなくたってそんなに悲しくなるなよ。"俺はこういう人間だ"なんてふざけた迷言だけど、ある意味合っているのかもね。自信持って言い放って見限られるだけならキモいんだけど、何か光るものを見出して側にいてくれる人がいるならそれも良いんじゃないかな。俺は黙って離れたり、近づいたりを繰り返して分かり合える日を待ちたいと思う。言葉はいちいち選ばずに受け取ってもらえる日を待とうと思う。湯を沸かして抹茶オレかコーヒーにするか迷ってたらお湯冷めた。誰かと心がすれ違った気分ね。でも大したことじゃないんよ。よくあること。そんなにギャーギャー喚くな。黙ってろよ。

 

up&down

主催イベントについて大袈裟に書いてみようと思います。

俺がもしこのイベントを定期開催できるのであれば最終的に行き着きたいのは好きなものを好きだと言える人たちを増産する場です。情報量が多い中で物事に詳しい人たちが増えてきた一方で不器用な人たちはそれを断言しにくくなっているような気がするんです。洋服について詳しくないからと自信なさげな人が凄く多いんですけど、そもそも洋服を着る上で大事なのってデザインと着心地なわけで、自分が気に入っていれば何着てても自信満々で良いと思うんですよね。俺に自信なさげな表情を向けてるけど俺も詳しくはないよ?っていう。これは音楽にしたってそうで、好きな気持ちに自信がなくて踊れないみたいな人多い気がするんです。

古着屋で見つけたアメリカの訳わかんねえブランドなんだけど、素材は良いしデザインもイケてるんだよね!みたいなのが一番個人的にはカッコ良いんですよ。それに対して詳しい人が出てきてこれはあのブランドのコピーっぽいね!とか、ジップやデザイン的に60年代くらいだね!とかいう話になればもっと面白い。これがまさに俺と鈴木さんなんですよね。知識を押し付けるのではなくて教えてくれる、尚且つ自分の在り方を肯定してくれるっていうだけで好きなものにもっとのめり込める。良いものの価値が分かればお金を出してみようかなという気分にもなる。こういうやりとりって古着屋とかではよくある光景なんですけど、皆んなが皆んな大名の入り組んだ古着屋に足を運ぶ訳ではないじゃないですか。それなら自分がよくいる界隈に持ってきちゃえ!っていう我儘なイベントな訳です。生きる上で切り離せない衣食住のうちの一つな訳だからこだわった方が得だ!っていうのが一番の主張かもしれません。フリーマーケットっていうラフな切り口なのであまり考えを語ると取っ付き難くなって逆効果かもしれないですね。フラッと遊びに来てください。何だかんだ着る人、聴く人、飲む人、大事なのは人です。

12/4 下書きにあった

俺には問題がある。否定する相手が何処にもいなくて悶々としているけれども。とにかく何かを否定したくて自己嫌悪とはまた違う形で自分を否定しながらブログを書くことがある。いつも誰かしらにブログのあれって誰のこと?って聞かれるけれどあれは誰でもなくて強いて言うなら俺のことだ。どうか気分を害さないで欲しい。これは一種の自傷行為かもしれない。中学生の頃、リストカットしてる女の子に「なんでそんなことすんの?」って聞いたらめちゃくちゃキレられたことがあったな。デリカシーって何か知ってる?アメリカのお菓子かな?

ただただきっかけも理由もなくただただ苦しい心があること、そういう人たちを理解してあげられる人がまだまだ少ないこと。知ったつもりにはなれるけど、知らないうちに人を傷つけてる心当たりがありすぎる。それでも緩めた自分の言葉なんてもんは本当にすっからかんなもので、やり場のないものを自分に向ける感覚を得たくなる。誰も悪くない状況で得体の知れねえ何かにムカつくっていうのは分かってもらえないし、苦しいもんな。その気持ちなら分かる。

皆んなブログ書こう。流行りの小説より皆んなの文章が読みたい。芸能人のアフィリエイトより皆んなの文章の方がどう考えても価値があるのに。文章って書いてるうちに"こう見られたい"っていう欲が現れるからその人そのものとは全く違うものになると思うんだけど、それが面白い。正直さから始まってそのうち見栄が混じって自分をコントロールできなくなってる糞みたいな文章を読むのが好き。好きだ。

 

12/17 下書きにあった

心の寂しさなのに人肌恋しいって皆んな言い表すから面白いですね。そういうことなんでしょうね。

ライターと思って持ち歩いていものがUSBメモリーだったお茶目な俺は火を起こせず困り果てていた訳でありまして、その辺をブンブン走ってきたであろう改造バイク横のヤンキーにライターを貸してくれとせがんだ訳だが、「俺、アイコスっす」と断られてしまった。

一方で地元の後輩の女の子は自作でシーシャを作って自宅で吸っているみたいだ。これは個人的にはイカす方に振り切ってる訳だが、今若者の間で何が起こっているんだ。

 

ピッキング深すぎて削れた人差し指が痛む。昨日のライブは前半で力が入り過ぎて後半はバテバテ。お客さんの前で「もう疲れた」とぼやいてしまう始末。もういつものパワープレイである。楽しかったな。ライブしたいな。

俺たちシースルーズはずっとメンバーのベクトルがバラバラでまとまっていないと言われ続けてきた。ドラムが変わる度にあらゆる調整が必要なのは言わずもがなだが、オリジナルメンバー込みでの話。個人的にそれはとても悔しくて、ここ最近はずっとその問題の解消に取り組んでいたつもりだ。何回もメンバーに電話したし、たまにはイラついたしイラつかれた。

ご飯も行くしたまに普通に遊ぶ。鍋もしたいし、ボヘミアンラプソディーも皆んなで観たい。でも俺はただの仲良しバンドになりたいわけではない。仲が良いのに越したことはないんだけど、なんかそれは俺の中では違ってた。

男女混合でリア充バンドだねなんて言われることがあるけど、うるせえんだよな。"リア充"だなんて言葉、卑屈な気持ちが透けて見えるね。どんだけだせえんだよ。テラスハウスにでも応募しとけカスが。あとバンドの客のふりしてうちのメンバーをDMで飯に誘うな。こっちはバンドの評判なんか気にしてねえからな。練習する時間奪うなら晒すぞ。